knowとknow about

一つ前の日記の続き。

 

私は何かの本質に迫ろうと思って本を手に取っていないわけで、知りたいと学びたいはちょっと違う。

 

先日英会話のクラスで、先生がknow aboutという熟語?を使用した。knowは他動詞だから前置詞は不要だろう?と思って、先生にどうしてaboutをつけるのかを尋ねたところ、意味合いが少しばかり違うことを知った。

 

I know him. (私は彼を知っている)

I know about him. (私は彼について知っている)

 

日本語で書いたら大した違いはないと思う。日本語すら微妙な私だから、もしかしたら大した違いがあるかもしれないけど、それはひとまず置いておいて。。

 

knowだけの場合、私は彼のことは知っているけど、彼が何者かはよくは知らない。と、いった感じで、know aboutの場合、彼のことをよく知っている、つまりは彼に対して専門性が高いのよね。

 

で、どうしてこんな話をするのかというと、私は言語学なり哲学系の本なり、少しばかり専門性のある本を手に取るのが好きだけれど、知識を得よう、学ぼうというほどの感覚をもってそれらを読まない。

ただ知りたいだけなの。

 

そこから更に考えると、私の中には一切の専門性がない。好きなものも、没頭するほどのものはない。だから非常に浅いわけ。ファッションも料理もその他諸々。他にも自分の人生にもそんなに没頭していなくて、ふんわり生きているわけ。人との繋がりも大切だけれど、あんまり執着していないから、出会っては別れてを繰り返すのよね。

 

それでいいのかな。けど、意外と満足はしているわけ。

 

…まとまらないけど、メモだからいいや。ふふ

今日本屋にて(9/23)

今日は20時過ぎに二子玉川蔦屋家電に行ったわけで、目的は特にないのだけれど、いい出会い(本)があったらいいな〜というのと、コーヒー飲みたいなぐらいのことしか考えてなかったわけです。

 

本は3冊買って帰りましたと。

言語学に関する本、世界の文学に関する本、ソクラテスの弁明を買いました。

それぞれ買った本は私の傾向というか、気まぐれではなくて理由ありきで購入した本で、言語学に関しては、最近気になる方に教えてもらった映画をみて、直接的な表現て下品よねとか思ったりして、言語に関する本を読みたかったというのがある。しかしながらね、今回手に取った本は言霊とかそういう美しい言語の世界観以前を語る本だと思う。まだ読んじゃないけど笑。けど、語学というか言語学には表現の美しさがあるから、何事も正しい表現を知らずして、アレンジを効かせるべきじゃないわねっと思って手に取った本。と、ここまでの理由が全く中身がないから、ここで自分の能力の限界も感じる笑。

ソクラテスの弁明に関しては、私もソクラテスと同じに違いない!ってよく冗談交じりで言っていると思われてるのだけれど、結構自分的には本気で、アポロン神殿に行っていないから神の啓示が聞こえてこないだけだ、と思っちゃっているが、そもそもソクラテスについて、世界史で学んだくらいの知識しかないから、何も知らずしてこんなこと言ってたらそれこそ神さまに見放されてしまう気がしたから、基本の基を知ろうかと思って手に取った本。おそらく、一回読んだだけでは、いや、多分何度か読まないと理解できないかもしれない。だからといって、避けれる道ではないよね。

文学に関する本は、沢山の文学の書き出しだけをまとめている本で、やっぱり昔の文学に主に興味があるからもっと読みたいと思う反面、内容のあらすじは知っておきたいと思って、手に取った本。楽しみだけど、分厚いから、他の2冊を捌くまでは手を出さないようにしようかと思います。

 

さて、何故本を?というところだけど、学んで話したい相手が現れたからかな。その方は、痛烈なつっこみをするものの、丁寧に話を聞いてくれる方で、興味を(恐らく)持ってくれる方で、それに合わせて自らの話をしてくれる方なのです。私がその方に魅力を感じているのは、その方自身が非常に奥ゆかしいというか趣があるというか、見栄や虚栄心がない、強がりにもみえるけど、優しいような弱いような、いうならとても陰も陽もある、クリアな紺色みたいな美しい方だからだと思う。

すごく心を打たれていて、、うーん、理由にはなっていないけれど、勉強をしたいなと思った。

 

つまりは、大した理由ではないってこと。

日記をつけようかと思って

昔、大学生の時にファミレスでバイトをしていて、すごく私を慕ってくれていた?ではなくて気にかけてくれていた?(どの言葉もしっくりこないけど、、)整備のおじさんに言われた言葉があって、「いつでもペンとメモ帳をもっておけ」と言われたことがある。おじさんは私は大物になる素質があるから、そのためにいつでも思いついたこと、感じたことをメモが取れるようにという意味だったみたい。

正直19歳の私にはまだピンとこなくって、持ったけれどすぐにやめた。飽き性だし、ノートとかすぐ新しいのを使っては大して書かずして終わっていた。ノートに感じる魅力は書くことより、可愛いデザインであるくらいしかなかったし。

28歳になるまでに、仕事以外でノートなり、手帳なりを持っても、本当に数ページ使ってはどっかいっちゃってた。けど、書き留めることの大切さは当時に比べたら分かり始めていると思う。大切なことに気づく年になったというのも然り、大切なことを忘れやすく(脳みその老化の問題ね、きっと)なったのもある。

つまるところ、何故日記をつけようかと思ったかというと、気づいたことを忘れないようにするためにつけようと思ったわけで、ここで私がメモをしたことは私であって、重要なことなんだろうなということと、あとは唯一話を明かせる相手に、伝え漏れないようにここに書き留めようと思う。